引田漁業協同組合が全力でお届けしています。
そしていよいよ本題に
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その昔、引田で盛んであったというボラ漁「中高網」

ここまで、その内容について、

いろいろと調べてまいりましたが、

網入れの日には、祭のような賑いを見せたという

「ボラ漁・中高」もですね、

昭和三十年代に、ボラは油臭がするなどと言われるようになり、

敬遠され次第に消えていったということでありました。

そして、そのボラの「臭い」というイメージが、

平成29年の現在まで、

なんとなく続いてきているような雰囲気がありますが、

実際に食べてみて「油臭がする」などと言っている人を、

ワタクシ聞いたことがないんですよね、ホントに。

というわけで、そのあたりのコトを検証するために、

これから実際に「ボラ」を購入して食べてみたいと思います。

これまで調べてまいりました、

村・浦、総出の一大イベントであった「ボラ漁」のこと。

その日を待ちわびたであろう当時の人々の熱気、高揚。

さまざまなことに思いを馳せながら、

また、養殖の普及により、

著しくその価値を落としたともいわれる、

「ボラ」の歴史的な背景をも考えながら、

しみじみと味わってみることにしたいと思います。

おっと、その前に。

今回、「中高網」について記事にするにあたり、

ご協力をいただきました萩野氏(ワタクシの同級生でもある)に、

この場をお借りして心より感謝申し上げます。

そして、その昔「ナカダカ」について、

お教えいただいた工藤氏にも、

改めて感謝申し上げる次第でございます。

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言いたかったこと
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その昔、引田で盛んであったというボラ漁「中高網漁業」について、

ここまで長々と説明させていただいてまいりました。

しかしながら、ホントに言いたかったことは、ただひとつ。

中高網研究の第一人者、萩野氏の研究冊子より言葉を借りれば、

中高網は冬場にボラを獲るまき網の一種である。

今でこそ魚類の養殖技術や流通が発達し、

季節や生産地を問わず様々な魚種が手に入るが、

これらが未発達であった前近代では、

冬場に獲れる魚は限られており

【中略】

冬場の中高網は貴重な収入源であった。


そして、

現在、引田ではボラは下魚扱いであるが、

昭和二〇年代まで特に寒ボラは高級魚であった。

また、隣地の白鳥神社では、

現在祭礼の供物としてタイを供えているが、

昭和四〇年代にはハマチ、それ以前はボラを供えていたとという。

【中略】

ボラは出世魚であり、縁起のいい魚ということから珍重されていた。


これらの部分。

現在は価値の低い魚であると認識されがちなボラが、

その昔は重要魚種であったこと、

また、その価値も現在とは比べ物にならないほど高かったこと、

ワタクシが本当に言いたかったのは、

これらの事にあるわけでございます。


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ふたつの証言
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そしてもうひとつ。

その昔、引田で盛んであったというボラ漁「中高網漁業」

時期になると、漁場の一定の区域を禁漁区(留め海)にし、

集まった魚を保護し、逸散を防ぎ、

夜は番船が出て「夜ねり」して魚の集合状況を監視する、

ということで、

その話を聞いたときにですね、

ワタクシふと疑問に思いまして、

「夜の真っ暗闇の中で、どうやってそれが分るんですか?」

と質問した記憶があるんです。

そのときの答えが、

「夜光虫」 (一番上は想像図

ボラが多く集まるとその動きに反応して、

海の中で夜光虫が光輝くんですって。

その光で、魚の集合状況を判断したのだそう。

この「夜光虫」のことについても、

これまでの「中高網漁業」を紹介させていただく中で、

触れておこうと思っていたのですが、

紹介するにあたり一応調べてみたんですよね、

そう「夜光虫」について。

そうしますと、光る季節は「冬」ではないといった情報なんかもありまして、

そうなると、もしかすると教えてくれた方の「勘違い」

という可能性もでてまいりましたので、

不確かな情報をお伝えするのもアレですし、

記事にする際、この部分も削ることにしたわけなんですよね。

ところが、これについても、

中高網漁業研究の第一人者「萩野氏」の研究冊子のなかで、

当時、中高網に携わっていた方からの聞き取りにおいて、

夜になると、ボラがどれだけ集まってきたか具合を見るために【中略】ボラが多く群れている時には、ボラが泳ぐとヒキ(ウミホタル)が反応して光り、ボラの動きが確認できた。

とあるではないですか。

萩野氏と、ワタクシ。

別々の方から、「夜光虫」と「ヒキ(ウミホタル)」と表現の違いはあれど、

同じ内容の証言を聞いていたことがここに判明し、

そしてこのことは、

その証言の信頼性及び信憑性を、

限りなく高めることになったのではないかなぁと、

思ってみたりするわけでございます。

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記憶と合致
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中高網漁業について、

「お殿様が見に来たんじゃ」

というような話を聞いたような記憶があったんですよね。

ただ、それが昔の雑談の中のことであるため、

はたして「中高網」についてのことだったのかどうなのかハッキリせず、

「引田町史」等で調べてはみたものの、それらしき箇所は発見できず、

また、ワタクシの記憶違いということも大いに考えられたので、

今回、中高網漁業について紹介させていただく際に、

その部分は削ったという経緯があったわけなのですが、

なんと、今回の、

中高網研究の第一人者「萩野氏」の冊子の中に、

その部分を発見したわけでございます。

それが、コチラ。

第八代藩主松平頼儀が寛政八年(一七九六)11月4日から同月10日まで東讃の領地を巡見した際、11月9日に引田で「撥尾魚」(ボラの小さいもの)の操業を見学したことが、この巡見に随行した高松藩士・岡井赤城の『行封日記』に記録されている。

中高の名称の由来について、引田では「高」が付くことから、高松藩主松平家から操業を許可されたことに由来すると現在でも伝えられている。しかしながら網の中央部の網丈が特に高いという網の形状から、この名が付いたとする説も広く知られている。

寛政十年(一七九八)の『浦方諸願留』には、中高網の操業のとき、庄屋や浦役人までが火事装束の上、帯剣し鉢巻をして威儀を正して漁に立会うなど格式を持った行事であり、その収入は引田浦の経費に充てられたことや、中高網で得た収入で藩主の参勤交代や帰城、その他の御用のための水主の賃金を賄っていることも記されている。

やはり、記憶は正しかった。

というわけで、その昔、引田で盛んであった「ボラ漁」

中高網は、讃岐高松藩と深い関りを持つ、

格式高い漁業であったみたいですねぇ。

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中高網漁業
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引田における、

中高網漁業研究の第一人者、萩野氏によると、

「引田の中高網は江戸時代から続き、

史料も断片的であるが通観できる程度の数は残存している」


とのこと。

それら近世史料、数々の文献、

また、当時の「中高網漁業」に携わっていた方への聞き取り、

などから、萩野氏がまとめあげた研究冊子より、

抜粋させていただく。

寛政11年(一七九九)の『讃岐廻遊記』には「安戸池 此浦に安戸池といふて東南西三方山を囲ひ、北より入海にて、冬の比おい、いな夥数群れ集る猟場にて、漁人莫大の利潤を得る所也」とある。

さらに、

嘉永六年(一八五三)編纂の『讃岐国名勝図会』には「安戸池」の項が設けられ、「厳冬に鰡多く集まりて幾千万をしらず、網を引くに壮観なり」と解説とともに挿図も付されている。

そして、

同年編纂の『三代物語』には「安戸池 初春の頃、鰡多く集る。一網にて取、仍て世に引田の千両網と云は是なり」とある。

萩野氏の研究によると、

このように数々の古い文献に、

引田の中高網についての記述が残されており、

これらのことから、当時の中高網漁業が、

この地域における「一大行事」であったこと、

そして莫大な利益を得ていたこと、

などが読み取れるわけでございます。

ちなみに、上の写真は昨日の朝市の様子。

ボラがたくさん獲れてるんですよねぇ。


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